自分の存在が誰かの夢である可能性【ファイナルファンタジー10】

 

小さい頃は内容を理解していない

自分が小さいころというのは、よく理解しないで生活していたんだなってよく思う。

小説や映画もそうだ。

よく理解もせず、楽しんでいた。理解していないのに楽しんでいたとは自分でもよくわからないけど、楽しんでいた記憶があるのだから仕方がない。そういうもんなんだろう。

恐ろしく感じる時もある。一番恐ろしかったのは、中学生とか高校生になってから007シリーズを観たときだ。小学生の時は、ニンテンドー64のゲームの影響で007の映画を観るようになった。今となっては好きだったかどうかわからないけれど、その頃の僕にしたら、小学生なのに大人っぽい映画を嗜んでいて(もちろん、当時は「嗜む」という言葉を知らなかったが)かっこいいと考えていたのだ。

しかし中学生になったときに、本当に驚いたのだ。直接的なシーンがあるわけではないけど、“アレ”を思わせるところがいくつもあった。過去に戻れるなら、親や親せきに「007が好きで観ている」と誇らしげに話していた小学生の自分の口を閉じに行きたいと考えたものだ。

こんな風に、内容をよく理解しないまま映画や小説を読んでいたのだ。

 

ファイナルファンタジー10という名作

最近、何かのキッカケでファイナルファンタジー10のあらすじを読むことがあった。YouTubeのおすすめで出てきたんだったか。中学生時代にプレイしたと思うけど、懐かしいなーと思ってあらすじを読んでいた。

全然覚えていなかった訳ではない。

プレイしたことのある人ならわかると思うが、アルベドホームで召喚士が究極召喚を使うと「シン」というボス的存在は倒せるかもしれないけど、召喚士自体は死んでしまうという事実を知った時の悲しさというか虚しさや怒りといったいろんな感情を画面の中の主人公と一緒に体験していた。僕は当時から本が好きだったが、FF10は中途半端な小説を読む何倍も面白いと思ったものだ。あそこまで感情移入できるゲームはいまだかつて存在しない。

と、偉そうなことを言っているけど、本当にそのゲームの物語がすごいのはそこじゃなかったんだ。FF10の評価が高いのは、感情移入がしやすいとか、キャラクターが魅力的であるとか、いろいろあるけども、一番すごいのは「主人公が誰かの夢に出てくる存在」という設定だと思う。中学生の僕にはよくわかってなかったんだ。最後に主人公消えたなー、と思っただけで、深く考えることはなかった。今回あらすじを読んで、「そうだったのか!」と驚いたのだ。

なんて哲学的な設定なんだろう。素晴らしい。こんな深い話だったとは。

主人公だけでなく、主人公が生まれ育った町も「祈り子」と呼ばれる存在が見続けている夢なのだ。戦争で破壊されそうになった町をせめて夢の中で存続させようという意思から、住民が「祈り子」という存在になり、長い間夢を見続けている。なんと儚い物語なんだろう。でも美しいと感じる。

 

自分が夢を見るように、誰かも夢を見ている

それからというもの、考え事が止まらない。

自分は誰かの夢である可能性についてである。

自分が主人公なんじゃないか?という中二病的発想ではない。(ん?そうなのか?)もともとデカルトの哲学が好きだったので、自分という存在の儚さのようなものは頭悪いなりに常々考えてはいたんだけど、夢という発想はなかった。普通におもしろい考え方だと思う。だって自分が夢の存在かどうかなんて、わからないでしょ、実際。

あなたは自分の存在を確信できますか?この世界が誰かの夢でないと証明することはできますか?

僕はわかりません。だって自分の存在さえあやふやなんですから。

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