物理をやる理由

どうやって生きるかと考えることはとても難しい。

何をやればいいかなんて誰も教えてくれない。

そういう意味では、昔の身分制度は楽だったかもしれない。だって自分の将来は決まっているんだから。農家に生まれた人は農家。商人の家に生まれたら商人になる。というように。

しかし現代社会ではよっぽどなことがない限り、自分の将来を決めつけられることはない。自由なのだ。でもなぜこんなにも不自由に感じるのだろうか。これが自由の功罪か?

自由だからといって、何をしてもいいわけではない。自分の道を決める時は、自分の能力や資格などを鑑みながら決めなくてはならない。人気の職業にはたくさんの人が集中し、ときには競争に勝たなくてはならないだろう。

 

ここで多くの人が直面するのだ。自分の限界に。人の能力には限界がないと言う人もいるかもしれないが、現時点での能力は決まっている。能力を伸ばすには時間がかかる。そういった意味で限界があるのだ。その時点で優劣が出てくるのは避けられない。

そういうのを無しにして、何でも自分のなりたいものになれるとしたらどうするだろう。

自分は何になりたい?

競争しなくていいのだ。自分の能力も勝手に上がるとしよう。何がよいか。

有名人?役者?医者?弁護士?

上げればキリがないが、僕はその中から「物理」を選んだのだ。

もちろんどれも自分のなれるようなものではない。自分のスター性のなさや頭の悪さは痛感している。これは「もし好きなものになれるならば」という話だ。

 

僕は理系の人間ではなかった。

数学というか、算数が苦手だったし、学校の授業やテストの成績をみれば、自分が理系の人間ではないことは周知だった。

人は得意なことを仕事にしようと言うが、残念ながら得意なことは特になかった。強いて言えるのは、足が速かったことぐらいだけど、サッカーで成功することはなかった。

とりあえず真面目に生きてきたのと、学校で言われることを黙ってやる力は養われていたようだ。先輩や上司のいうことをちゃんと聞くロボットのような人間にはなれていたかもしれない。

しかし僕はロボットにもなり切れないようだった。

特に飲食店などのサービス業での仕事は全くできなかった。優先順位が立てられないし、要領の良さみたいなものは皆無だった。怒られることの方が多かったし、「あいつ宇宙人ちゃうか」と言われたときは悲しかった。

そこで考えるんだ。たとえ自分がすごい要領の良い人間だったとして、飲食店でがんばりたいのか?いやそんなことはないだろう。そこの世界でもまた競争があるのだ。少ない人数でお客さんを回すことに生きがいを感じる人たちと戦っていかなくてはいけない。

さらに考えた。もしそこで本当にトップ、世界一のサーバーになれる実力があるとして、自分はそれになりたいのかと。いや、なれたとしてもなりたくないと思った。

僕にとって、人生の意義を感じられないと思ったのだ。

僕の歌がとても上手かったとして、歌手として人生を終えたいだろうか。演技がとても上手くてイケメンで俳優として人生を終えたいだろうか。サッカー選手としてバリバリ活躍した人間として生涯を閉じたいだろうか。

もう一度言う、僕はどの職業に対してもポテンシャルは断じてない。

サッカー選手には昔なりたかったが、今はそうでもない。

 

でも宇宙とか世界の仕組みのようなことを考える物理をやることは、とても意義のあることだと思うのだ。

天文学者のハッブルがこう言った

私は、一流の法律家であるよりは、二流の天文学者でありたい

最終的には、天文学者として有名になったのだが、厳しい父親に自分の道を決めつけられたことのある彼も、素人でもいいからその道に進みたいという気持ちがあったのだろう。

僕は、何をしても大成できないだろう。そんな気がする。

ならせめて、自分が意義のあることだと思えるものに携わっていきたいと思うのだ。

今も、物理の大学院生としてもやっていける実力はないだろう。しかし、物理を勉強する時間を確保したり、機会を作るために今の環境を作った。

この考え方は間違いだろうか?

良く思われないことの方が多いけど、誰かに決められたわけでなく、これが自分で決めた道なのだ。真面目に人のいうことだけが取り柄だった小さいころの自分とは違い、人に言えるほどのことではないけれど、小さな自分が考えて、決めたことなのだ。

それはどんな素晴らしいレールの上を進むことより、大事なことだと信じている。

どこまでいけるのか。

ここに記していきたい。

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